日本に一時帰国すると、街の風景や人々の様子から、日本独特の社会文化やコミュニケーションのルールを強く感じます。
ドイツの(日本と比較して)自由でオープンな空気に慣れていると、日本の街では個人の個性よりも集団の調和やマナーが優先されることに気づきます。
全5回でお伝えする私がドイツから日本に一時帰国時した際に気づいたことですが、今回は、日本で改めて実感した「個性・コミュニケーション・社会文化」の特徴を詳しくまとめます。
・ドイツでの生活に興味のある方
・ドイツから日本への一時帰国を予定している方
「個性よりも調和」が重んじられる日本の社会
日本の街中を歩いていると、まず目につくのは人々の服装や行動の均一性です。
特に平日の街や通勤電車では、黒いスーツを着た人々が整然と並び、個性的な服装や派手な髪型の人はごくわずかです。
学校でも、制服や標準的な服装を採用しているところが多く、個性の主張は控えめです。
最近は、日本でも個性が尊重される世の中になり、例えば服装や髪形なども多様になりつつあります。
それでもやはりドイツと比べると、全体的に統一感のある恰好が目立ち、まるで軍隊のようでもあります。

一方で、ドイツの街では、服装や髪型の自由度が高く、駅やカフェをはじめ様々な所で個性豊かな人々をよく見かけます。
ビビットカラー強めな服装の人、例えようのない奇抜な髪型の人、影かと思うぐらい全身黒づくめの人、タトゥーやピアスが特徴的な人…。
そのため、日本の街の人々の外見の均一感に、私は改めて驚きを感じました。
これは、社会全体で「集団の調和を乱さない」ことが重要視される日本の文化の表れなのでしょう。
日本では、周囲と大きく違ったり目立ったりする行動は控えるべきだという暗黙のルールが存在しています。
個人の自由よりも、秩序や公共空間での快適さを優先する意識が、日本にいると強く感じられます。
もちろん、日本において、個性が完全に否定されているわけではありません。
しかし、公共空間や仕事場では特に控えめに表現することが求められています。
ドイツでは、個性を積極的に表現することが社会的にも尊重されていますが、日本では「目立たず、周囲と調和する」ことが社会的に評価されやすい傾向にあります。
日本のこのような環境では、個性を強く発揮する場は家庭や趣味、インターネットなどの空間に限定されることが多くなり、窮屈に感じている人も多いことでしょう。
実際、私も職場などでそのように感じることがありました…。
他人との距離感と沈黙の文化
日本では、公共の場において他人と距離を置くことが基本です。
電車やカフェで隣の人と話すことはまずありません。
そもそも、日本では電車で会話をしている人もごく少数です。
また、駅や街中で見知らぬ人に話しかけることはまずないですし、困った時にも他人に尋ねるのは気が引けると感じる人も多いのではないでしょうか。

ドイツでは、この様子が少し違います。
確かにドイツ人は、イタリアやスペインのような南ヨーロッパの人達と比べると、より寡黙で他人との距離を取ることが多い傾向にあります。
その一方で、商品が見つからなかったり道が分からなかったりした場合に、サッと近くの店員や通りすがりの人に尋ねることは日常茶飯事です。
また、レストランで隣の席の人に軽く挨拶をしたり、隣の席の人が突然話しかけてきたりすることもあります。
また、ドイツでは、スーパーマーケットやお店のレジでお会計をする際にも、店員と顧客の両者が「Hallo」などと言い、お会計が済んで別れる時には「Schönen Tag」や「Tschüss」などと言うことが一般的です。
お互い知らない人同士ですが、この挨拶や一言交わす行動が、ドイツでは習慣として深く根付いています。
日本では、顧客に対してレジ担当の人が「いらっしゃいませ」や「ありがとうございました」などと言ってくれますが、客側は何も言わずに無視したり軽く会釈をして返すことが一般的です。
日本とドイツのどちらが良いと感じるかは人それぞれですが、日本の方が冷たい印象で、逆に言えばドイツの方が他人への干渉が多めです。
私が日本に一時帰国してこの違いを改めて体験すると、日本で若干の違和感と孤独感を感じました。
しかし、日本に帰ってきて1週間程すればこの違いにも再度慣れてきて、徐々に日本での生活を思い出してくると、この沈黙や距離感が逆に心地良くも感じられます。
見知らぬ人に干渉されない自由と、静かな空間が同時に存在するのです。
日本人が日本語を見て感動する!?
日本に帰国すると、目に入る単語や文章のほとんどが私の母語である日本語です。
これはごく当然のことなのですが、すべての文章を自然に即座に理解できることに、なぜか感動してしまいます。
ドイツでは、街中で日本語を見る機会が非常に少なく、ドイツ語も英語も日本語ほどの語彙力がない私にとっては、目に入ってくるすべての単語や文章を即座に理解することはできません。
駅の案内、広告、注意書き、看板、パッケージの説明……。
これらが母語である日本語で視覚に入ってくるだけで、どこか安心感を覚える一方で、長く海外に住んでいると、違和感や特別な興奮も同時に生まれます。
日本語の文章があふれる空間は、日常生活の情報がすべて自分の理解できる言語で整理されているため、世界が非常に明確に見えるのです。

ドイツでは、公共の表示や商品情報は基本的にドイツ語で表記されており、外国語(特に日本語)での説明は限られています。
そのため、日本に帰ると「情報の理解の容易さ」と「安心感」が強く感じられ、改めて母語の便利さと心地良さを実感します。
注意書きであふれる日本の街
日本では、至る所に注意書きやルールの説明が細かく記されています。
工事現場の段差や駅の階段、道路や施設内の注意書きまで親切すぎるほどです。
視界に大量の注意書きが入ることがあり、情報量が多すぎて処理に困ったり、景観が損なわれていると感じることすらあります。
一方のドイツでは、注意書きは必要最低限にとどまり、あとは利用者の判断に委ねられることが多いです。
何か事故が発生した場合の責任追及をどのように行うのかが気になるところですが、注意書きの少なさゆえに景観がすっきりしています。
この違いは、日本において「他者への配慮やトラブル予防が文化として徹底している」ことの表れなのでしょう。
例えば、駅の階段に「右側通行」「段差に注意」などとしつこいほど明示されているだけでなく、車椅子やベビーカーに関する案内も丁寧に書かれています。
電車のドア付近にも、「手を挟まぬよう注意」だとか「傘を挟まぬよう注意」だとか色々と丁寧に書かれています。
日本の社会全体で安全と秩序を重んじる姿勢が、こうした細かい表示に反映されています。
コロナ流行後の感染症対策と他者への配慮のためのマスク文化
2025年11月にドイツから日本へ一時帰国した私は、日本のマスク着用率の高さに少し驚かされました。
ちょうどこの時は、日本でインフルエンザが大流行しており、その対策としてマスクをしていた人も多いと思われます。
また、ブタクサの花粉症の対策として、マスクを着用していた人も多かったと思かったでしょう。

ドイツでは、新型コロナ流行開始から2年後の2022年には、既にマスク着用率は急速に下がっていました。
再度新型コロナが流行したりインフルエンザが流行したりしても、マスクを着ける人は圧倒的少数派です。
特に、高齢者以外のマスク着用率が非常に低く、私の友人でドイツでマスクをしている人は人種に関わらずいません。
そういう状況に慣れた中で日本に一時帰国した私は、日本において公共の場での感染症対策意識が根付いていること、そしてマスクの着用が習慣化していることを改めて実感しました。
日本では、マスクは単なる自分自身の健康対策に留まらず、他者への配慮としても機能しています。
「咳やくしゃみで他人に迷惑をかけない。ウイルスを他人に移さない。」という文化が、個人行動の中に自然に組み込まれているのです。
この点も、個人と社会の関係性における日本とドイツの大きな違いとして、今回感じられました。
日本の公共マナーと秩序の文化
日本社会では、公共マナーやルールを守る意識が非常に高いと私は感じます。
信号を守る歩行者の割合はドイツより圧倒的に高く、電車内での会話や携帯電話の使用も制限されています。
また、駅や街中での順番待ちの整然さや、ゴミの持ち帰りといった習慣も徹底されています。
この秩序の高さは、個人の自由を制限するものではなく、全員が快適に過ごすための配慮として社会に根付いています。
結果として、公共空間が穏やかで安心できる環境になり、日本に帰国するたびに「この静けさと整然さは何だろう」と違和感を覚えるとともに感動してしまいます。
最後に
日本では、個性と社会の調和が絶妙なバランスで共存しています。
個人の自由がある程度尊重されつつも、公共空間では秩序とマナーが優先され、他者への配慮が文化として徹底されています。
沈黙や距離感、注意書きや規則、マスク文化、公共マナー……。
これらすべてが、日本社会の特徴である「個性より調和を重んじる文化」を表しています。
ドイツ生活を経て日本に一時的に戻ると、この文化の奥深さを体感でき、社会の空気や秩序、他者への配慮の意味が、言葉や文章だけではなく五感で理解できるようになります。
この気づきは、旅行や短期滞在後の日本への帰国ではあまり味わえない、海外に長く住んだ経験がある人の特権だと思います。

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